ところが、昭和二十年といえば戦争の末期である。かなりの年配者も出征して前線に参加する有様で、医師も例外ではなく、札幌市内の医師も軍医として前線へ、また徴用医として国内の飛行場建設作業挺身隊に配属になるなど、医師の数もまた不足を来たした。一方、富国強兵の国策との関係から予防注射などの公共サービスの仕事量も急速に増加し、白石村としてこの際ぜひ村医を迎えたいという機運にあった。
そのような情勢のもと、小生は海軍兵学校に入学、昭和二十年三月三十日卒業、前線へ出ることとなり、三月十八日江田島本校(広島県の広島湾にあり、呉軍港の西側に位置する)で卒業式が挙行され、わが第七十四期の父兄も招待されることとなった。卒業後は前線へ配備されるので、送別の意味を兼ねて、父母との面会ということになるわけで、亡父母が面会に来ることとなった。当時、小生は岩国分校に居り十七日岩国で面会、十八日は本校の卒業式で再度面会の予定であった。