吉田記念病院の歴史 History
白石村医療発祥由来記 吉田信(前理事長)
白石街道、今の国道12号線(昭和15年)
昭和二十年頃まで、当時の白石村-現在の白石区には正規の医療機関はなかった。つまり、白石村は開村以来七十五年の長い間無医村だったのである。人口も僅か六千人、札幌市街地から比較的近く、若し病気の時は札幌まで診療を受けに出かけ、学校医などは最寄りの開業医に依頼するなどの方式で、どうやら間に合っていたらしい。
吉田元隣
1860(安政7年)-1917年(大正6年)
ところが、昭和二十年といえば戦争の末期である。かなりの年配者も出征して前線に参加する有様で、医師も例外ではなく、札幌市内の医師も軍医として前線へ、また徴用医として国内の飛行場建設作業挺身隊に配属になるなど、医師の数もまた不足を来たした。一方、富国強兵の国策との関係から予防注射などの公共サービスの仕事量も急速に増加し、白石村としてこの際ぜひ村医を迎えたいという機運にあった。
そのような情勢のもと、小生は海軍兵学校に入学、昭和二十年三月三十日卒業、前線へ出ることとなり、三月十八日江田島本校(広島県の広島湾にあり、呉軍港の西側に位置する)で卒業式が挙行され、わが第七十四期の父兄も招待されることとなった。卒業後は前線へ配備されるので、送別の意味を兼ねて、父母との面会ということになるわけで、亡父母が面会に来ることとなった。当時、小生は岩国分校に居り十七日岩国で面会、十八日は本校の卒業式で再度面会の予定であった。
吉田廣
1895(明治28年)-1951年(昭和26年)
診察カバンを肩にかけて白石村を歩いて往診
ところが十八日当日は広島・呉地方に大空襲があり、われわれは一時宮島に退避するなど大幅におくれて漸く卒業式に参列できる状態であり、父母たちも途中艦載機の襲撃を受け遂に江田島へは渡ることが出来なかったのである。
父母は帰札後、その時の空襲の体験、岩国までの列車窓よりみられる通過地帯の被災状況、特に神戸市の高架線上から見られる一面の焦土と化した状況を具さに目の前にした結果、札幌市内も遠からず同じ状態になるものと考えたのも無理からぬところで、恰度、話に出て来た建造物疎開令にもとづく、疎開の話が自ずと進められることになる。
昭和20年の暮れ、大通西4丁目から移築された吉田診療所。
当時、わが家は札幌市のど真中、北大通西四丁目にあり、電話局のすぐ南隣りに位置し、「吉田広診療所」と称し、亡父は開業医で患者さんのなかに白石村厚別地区の川下の中沢さん一家が居られた。ご存知の方もおられると思うが、中沢さんやそのご親戚の小池さん一家などは、厚別の篤農家であり、その他、幾人かの患者さんが白石厚別地区から、亡父のところへかかりつけであった。
たまたま、先に述べた白石村の無医村を解決しようという、白石村側の厚生係の小林政吉さん(札幌市役所勤務時代、亡父と面識あり)、収入役の黒沢さん、そして横辻亀次郎村長さんの再三にわたる村医招へいのご要望と、亡父の疎開せねばならないという条件とが完全に一致して、亡父は村医を引受けることとなった。
昭和30年頃の吉田病院。敷地内にバス停の待合所を吉田信医師が手作りで建てた。
そうなると、村議会の議決を得る必要があるのだが、白石村では当時の財力では到底村立の診療所を建設する力はなかった。結局、土地は役場が借りる、建物は亡父が大通りのものを寄附することとなり、解体して現在地へ再組立することとなった。また医療の経営面はいわゆる委託開業の形、即ち公設民営の形式となった。無論、学校医も管内の数校全部を引受け、厚別地区には旅館の一室に分院をつくり週三回午後そちらへ出張したりもしたのである。
こうして終戦直前、戦後の混乱期、白石村が札幌市に合併される昭和二十五年まで「白石村診療所」として、文字通り地域医療の拠点として活動した。合併の際、亡父は再び個人の立場でこの建物を買取り、「吉田診療所」として引続き地域医療の推進の為懸命に努力することとなったのであるが、昭和二十六年五月十八日、持病の胃潰瘍による消化管出血の為、他界した。
手前部分は後に増築されたものだが、その他は開業当時のままで、医局などの管理部門に使われている。後ろにモダンな現在の病院がある。
その後は小生が跡を継ぎ、昭和三十七年からは規模拡大により「吉田病院」と名称を変更し、今日まで地域医療の為、微力を尽くして来たところである。今日、白石地域の人口は二十万以上、医療機関は百を超え、今昔の感にたえない。
ところで、上野幌の雪印の牧場入ロに「酪農発祥の地」という石碑が建っているのを、ご存知の方も居られると思う。 この碑とアナロジカルに発想すれば、現代医療がこの白石に発祥したのは、まさに亡父が築いた「白石村診療所」にあるといわねばならない。偉大な遺跡を継いだ小生としては、現在の「吉田病院」がこの「白石村医療発祥の地」にふさわしいものとして今後もその役割を果たしてゆきたいものと、覚悟を新たにしている次第である。地域の皆様のご理解・ご協力を心からお願申し上げ擱筆する。
出典 「白石と吉田病院」平成元年発行より
吉田信
1925(大正14年)-2001年(平成13年)
1963(昭和38)-1972年(昭和47)社団法人札幌市医師会理事
1969(昭和44)-1975年(昭和50)社団法人札幌市医師会常任理事
1975(昭和50)-1987年(昭和62)社団法人北海道医師会副会長
1987(昭和62)-1999年(平成11)社団法人北海道医師会会長
1984(昭和59)-1986年(昭和61)社団法人日本医師会監事
1986(昭和61)-1999年(平成11)社団法人日本医師会理事
1984(昭和59)-2001年(平成13)北海道警察医会会長
1989(平成元)-1999年(平成11)財団法人北海道学校保健会会長